地下水過剰揚水地域における地下水涵養:農業・生活用水の持続可能性を支える地域連携型アプローチ事例
はじめに
多くの平野部、特に沿岸部に位置する地域では、その安定した水質と利用のしやすさから、農業用水および生活用水として地下水が主要な水源として利用されてきました。しかし、長年にわたる過剰な揚水は、地下水位の低下、沿岸部における塩水侵入、そして井戸枯渇リスクの増大といった深刻な水資源課題を引き起こしています。本記事では、このような地下水過剰揚水地域において、持続可能な水資源管理を実現するために導入された地域連携型地下水涵養アプローチの具体的な事例を紹介し、その詳細、導入効果、および他地域への示唆について考察します。この適応策は、気候変動による水資源の変動性増大という背景も踏まえ、水資源の安定供給と生態系保全の両立を目指すものです。
適用地域と産業の特性
本事例の対象地域は、温暖な気候に恵まれた沖積平野に位置し、古くから米作を中心とした農業が盛んでしたが、近年では施設園芸による野菜や果樹の栽培も拡大しています。地域住民の生活用水も大部分を地下水に依存しており、地下水は地域経済と生活を支える不可欠な資源です。
この地域では、以下のような特性と課題に直面していました。
- 自然的特性: 平坦な地形であり、周辺の河川からの自然涵養も限定的です。また、沿岸部に近いため、地下水位の低下は直接的に塩水侵入のリスクを高めます。過去数十年にわたり、観測井戸では平均で年間数センチメートルの地下水位低下が記録されており、特に渇水年にはその傾向が顕著でした。
- 社会的・経済的特性: 農業、特に高単価な施設園芸では、安定した水供給が不可欠であり、品質維持のために地下水への依存度が高い状況です。また、観光業も重要な産業であり、景観や生態系保全の観点からも健全な水循環が求められています。
- 課題:
- 地下水位の慢性的な低下: 揚水量が涵養量を上回る状態が常態化し、複数の井戸で揚水量の減少や枯渇が報告されています。
- 塩水侵入の脅威: 沿岸部の農業地帯では、地下水位の低下に伴い、地下深部からの塩水侵入が確認され、作物の生育不良を引き起こす懸念が高まっています。
- 揚水コストの増大: 地下水位の低下により、揚水にかかる電気代などのコストが増加し、農業経営を圧迫しています。
適応策の詳細
これらの課題に対応するため、地域全体で包括的な地下水涵養プロジェクトが立ち上げられました。導入された適応策は、技術的アプローチと制度的アプローチを組み合わせた多角的なものです。
技術的アプローチ
- 雨水・河川水の地下浸透促進施設の整備:
- 遊水地および調整池の活用: 降雨時に一時的に雨水や河川水を貯留し、地中への浸透を促す施設を既存の遊水地や調整池に改修・新設しました。これにより、降雨時に通常は河川に流出していた水資源を有効活用し、時間をかけて地下に浸透させる仕組みを構築しています。
- 浸透ます・多孔管の設置: 農業用水路の末端や、宅地の庭先、道路脇に浸透ますや多孔管を設置し、小規模分散型での地下水涵養を推進しました。特に、透水性の低い農地や宅地からの雨水を効果的に浸透させることを目的としています。
- 休耕田を活用した湛水事業: 一部の休耕田を一時的に湛水させ、水田本来の涵養機能を活用する取り組みを実施しました。この事業は、地域住民の協力のもと、地下水涵養期間を設けることで、地域の地下水量を増加させることに貢献しています。
- 涵養効果を高める土地利用の見直し:
- 森林保全と植林活動: 上流域の森林が持つ保水力と涵養機能に着目し、森林の適切な管理・保全活動を強化しました。また、失われた森林の再生を目指し、地域住民参加型の植林活動も実施しています。
- 透水性舗装の導入: 市街地や農道の一部において、アスファルト舗装を透水性舗装に転換し、地表からの雨水浸透を促進することで、都市部の涵養機能向上を図っています。
- 地下水モニタリング体制の強化:
- センサーネットワークの構築: 地域内の複数の観測井戸に地下水位・水質(特に塩分濃度)センサーを設置し、IoT技術を活用してリアルタイムでデータを収集するネットワークを構築しました。
- データ分析と公開: 収集されたデータは専門機関で分析され、地下水の動態予測や涵養効果の評価に用いられます。これらの情報は地域協議会を通じて関係者に共有され、透明性の高い水資源管理に貢献しています。
制度的アプローチ
- 地域協議会の設立: 農業者、漁業者、自治体、地域住民、学識経験者、水利組合など、多岐にわたるステークホルダーが参加する「地下水保全地域協議会」を設立しました。この協議会が適応策の計画策定、実施、評価の中心となり、関係者の合意形成と協力体制を構築しました。
- 地下水利用規制と涵養活動への助成制度: 地域協議会の合意に基づき、新規の深井戸掘削や大規模揚水に対する規制を導入しました。同時に、節水型農業技術の導入や、前述の浸透ます設置など、涵養活動に取り組む農業者や住民に対し、自治体からの助成金制度を創設し、積極的な参加を促しています。
- 水源地域との連携協定: 上流域の自治体や水利組合と連携協定を締結し、河川からの取水量を調整することで、下流域への安定的な水量確保と、涵養事業に必要な水資源の供給源を確保しています。
導入効果と評価
本適応策の導入により、以下のような具体的な効果が確認されました。
- 地下水位の回復: 導入後5年間で、年間平均地下水位が約15cm上昇しました。特に乾期における水位低下の幅が抑制され、年間を通じた地下水位の安定化が図られています。これは、国土交通省の地下水管理に関する報告書における類似事例と比較しても、顕著な改善と言えます。
- 塩水侵入リスクの低減: 沿岸部のモニタリング井戸における塩分濃度が安定または低下傾向を示し、塩水侵入域の拡大が抑制されました。これにより、農業被害の発生リスクが低減しています。
- 揚水コストの抑制: 地下水位の上昇により、揚水ポンプの稼働時間が短縮され、揚水にかかるエネルギーコストが平均で約10%削減されました。これは、農業経営の安定化に直接貢献しています。
- 地域住民の意識向上: 地域協議会による積極的な情報公開と参加型イベントを通じて、地域住民の水資源保全に対する意識が大幅に向上しました。これにより、節水習慣の定着や、自主的な涵養活動への参加が促進されています。
- 生態系への貢献: 湛水事業や森林保全活動は、地域の生物多様性の維持・向上にも寄与しています。特に、湛水された休耕田は、渡り鳥の飛来地となるなど、予期せぬ生態系サービスが創出されました。
一方で、課題も認識されています。初期投資コストの大きさが障壁となり、全ての地域で同様の規模での展開が難しい点や、土地利用転換に対する一部住民からの抵抗があった点などが挙げられます。これらの課題に対しては、国や地方自治体からの財政支援の継続と、地域住民への丁寧な説明と合意形成の努力が不可欠であると評価されています。
成功要因と課題
成功要因
- 強い危機意識の共有: 地下水位低下と塩水侵入という具体的な脅威が地域全体で認識され、共通の危機意識が醸成されたことが、多様な関係者の協力を促す最大の要因となりました。
- 多主体連携の成功: 自治体、農業者、水利組合、地域住民、学識経験者といった多岐にわたるステークホルダーが「地下水保全地域協議会」の下に集結し、計画策定から実施、評価に至るまで、継続的に連携したことが成功の鍵でした。
- 科学的データに基づく意思決定: IoTを活用したリアルタイムモニタリングデータに基づき、地下水の状況を客観的に把握し、効果的な適応策を科学的に評価しながら意思決定を進められたことが、施策の有効性を高めました。
- インセンティブの提供: 涵養活動への助成金制度が、地域住民や農業者の積極的な参加を促し、活動の持続性を確保しました。
課題
- 初期投資と維持管理コスト: 浸透施設の整備やモニタリングシステムの導入には多額の初期投資が必要であり、また、施設の維持管理にも継続的な費用が発生します。これらに対する安定した財源確保が今後の課題です。
- 気候変動への対応: 降雨パターンの変化や極端な気象イベントの頻発は、涵養量に直接影響を与えます。涵養施設の設計や運用において、これらの変動性を考慮した柔軟な対応が求められます。関連する研究では、将来の降雨シナリオに応じた涵養効果のシミュレーションが重要であると指摘されています。
- 大規模な土地利用転換の難しさ: 地域全体での効果を最大化するためには、広範囲での土地利用の見直しが必要となる場合がありますが、個人の土地所有権や農業経営との兼ね合いから、その実現には高いハードルがあります。
他の地域・産業への示唆
本事例は、地下水過剰揚水に悩む他の地域や産業にとって、以下の点で重要な示唆を与えます。
- 多角的なアプローチの必要性: 技術的対策だけでなく、制度設計、地域連携、そして住民の意識向上という多角的なアプローチを組み合わせることが、持続可能な水資源管理には不可欠です。
- 地域特性に応じた技術選択と組み合わせ: 一つの技術に依存するのではなく、その地域の気候、地形、産業構造に最も適した涵養技術(例:遊水地、浸透ます、湛水事業など)を複数組み合わせることで、より効果的かつ堅牢なシステムを構築できる可能性を示しています。
- モニタリングとデータ活用の重要性: リアルタイムの地下水モニタリングデータは、現状把握、効果評価、そして将来予測の基盤となります。これにより、適応策のPDCAサイクルを効果的に回し、不断の改善を図ることが可能になります。
- 合意形成と参加型プロセス: 水資源は地域共有の財産であり、その管理には多様なステークホルダーの合意形成と積極的な参加が不可欠です。地域協議会のような場を通じて、情報共有と意見交換を促進し、共通の目標に向かって協力する体制を築くことが成功の鍵となります。
本事例は、地下水依存型社会が直面する課題に対する実践的な解決策であり、今後、同様の課題を抱える地域において、その経験と知見が大いに役立つことでしょう。持続可能な水資源管理は、地域社会のレジリエンスを高める上で不可欠な要素であり、このような適応策の普及が期待されます。
関連情報への参照
- 国土交通省「地下水管理に関する報告書」
- 〇〇県「水資源計画」
- 地方自治体における地下水涵養事業に関する研究論文
- 農業用水管理に関する学会発表資料